入院の日

グリーフ体験記①

 

 

「またね」と言って病室を出た後、何かが落ちる音がしたので、すぐに病室に戻った。

 

ベッドから落ちたテレビのリモコンを拾おうと、妻が無理に起きあがろうとしているところだったのでそれを静止し、リモコンを拾い上げて移動式のテーブルに載せた。

 

そして再び「またね」と挨拶を交わし、病室を後にした。

それが最後の会話になった。

 

再発乳がんの治療をしていた妻が入院したのはその日の午前のことだった。

救急車を嫌がる妻をなんとか自家用車に乗せ、病院では看護師の介助を受けながらようやく診察室まで辿り着いても、すぐには入院させてもらえなかった。

コロナの検査が必要だというのだ。

 

陰性の結果が出て、ようやく緩和ケア病棟のベッドに落ち着かせた後、主治医から話があると言われて私だけ病室から連れ出された。

 

主治医の話は予想通り厳しい内容だった。

今後は月単位ではなく、週単位での変化が予想されること、そして「年を越すのは難しいだろう」と言われ、それなりの覚悟をした。

 

病室へ戻ると、勘の良い妻はか細い声で私に余命を尋ねた。

正直に伝えると「あと数週間はあるんだね」と少し安心したように見えた。

 

2人とも翌日の夕方には普通に再会できると信じていた。

だから、簡単な「またね」で良いと思ったのだ。

 

翌日は入浴セットを持っていくつもりだった。

「体調が回復したら、入浴しましょうね」と担当の看護師が言ってくれたので、帰りにドラッグストアに寄り、シャンプー、リンス、ボディーソープ、洗顔フォームを買い揃えた。

「あぁそうだ、入浴セットを持ち運ぶためのカゴも100円ショップで買えば良かったなぁ。まぁでも、明日、仕事帰りに寄れば大丈夫か。」などと考え、翌日は普通に仕事をしてから面会するつもりだった。

 

できることなら、1日中付き添っていたかった。

だが、コロナの影響で面会時間が著しく制限されており、仕事を休んでもできることがない。

主治医からは「容態が悪化した場合は融通を利かせられる」と聞いていたので、それまでは普通に仕事をしよう。

そう考えながら帰途に着いた。

 

帰宅すると家があまりにも静かで、孤独感が一気に押し寄せてきた。

妻がいない家に帰るなど、十数年振りになるだろうか。

「あぁ、もうすぐ独りになるんだなぁ・・・」と実感した。

遠からずその時が訪れることを覚悟はしていたが、鋭い刃の切先がいよいよ喉元に突きつけられ、もはや逃れられないことを思い知らされた。

 

そんな状況でも空腹になり、お腹が鳴るのが不思議だった。

だが、食欲は無い。

まったく食べる気は起きないのだが、長期戦に備えて栄養を補給しなければならない。

 

入院生活が長引くことは、辛いことであると同時に、喜ばしいことでもあるのだ。

毎日、元気な姿を妻に見せなければならない。

 

千切りキャベツにマヨネーズをかけてかき込み、レンジで解凍した白米に納豆と生卵をかけて流し込んだ。

それは食事などと呼べるものではなく、生命を維持するための単なる栄養補給に過ぎない。

とは言え、必要な栄養素は摂取することができたはずだ。

 

食事を終えると、夜が長い。

 

妻は料理が好きだったが、体力が低下し、数週間前から私が料理をするようになっていた。

と言っても、焼きそばのような簡単なものばかりだが、「食欲が無い時でも、焼きそばなら食べられそう」と妻が言っていたので、それで良かったのだ。

 

不慣れだった料理にもだいぶ慣れ、手際が良くなってきたが、それでも一定の時間はかかる。

そして、自分が食べ終わった後も、飲み込む力が弱った妻が食べ終わるのをゆっくり待ち、果物の皮を剥く。

食が細い妻に合わせて半分ずつ、あるいは4分の1ずつ。

さらに、妻の調子が良ければ、買っておいたデザートを4分割して出す。

妻は調子に応じて1切れか2切れを食べ、残りを私が平らげる。

それから、服薬ゼリーとスプーンを出し、何種類もの薬を飲み終えたら片付けだ。

使用した調理器具や食器の数はそれなりにあり、食洗機に詰めるだけでも一定の時間がかかる。

食洗機に入れられないフライパンなどは手洗いだ。

 

それが今日は10分と掛からない。

レンジで数分で用意は終わり、2〜3分で食べ終わってしまう。

果物もデザートも食べる気がしない。

使用した食器の数も少ないので、片付けもあっという間だ。

 

暇つぶしのゲームをする気力も湧かず、久しぶりにブログを書いた。

 

随分とブログを書いていなかった。

状況が厳し過ぎて、ブログを書く気力が湧かなかった。

逆に少しでも心穏やかに過ごしている時はこれといって書くこともなく、あえて書こうとすれば辛いことを考えることになってしまうので、書きたくない。

そうしてブログから遠ざかっていた。

 

でも、その晩は書かずにはいられなかった。

 

以前のように何でも話せる相手ではなくなっても、側にいてくれるだけで妻は心の支えになっていたようだ。

その支えがなくなり、誰かに話を聞いて欲しかった。

 

だが、そんなことを話せる友人はいない。

親にも心配をかけたくないので、あまり詳しい話はできない。

ブログを書くしかなかったのだ。

 

さて、睡眠も大事だ。

ブログを書き終えたら、いつもの薬を飲んで寝ることにしよう。

あまり眠くはないが、明日に備えて眠らなければならない。

 

アルコールはだめだ。

急な呼び出しがあるかもしれないから。

 

そうだ、病院からの着信はバイブが鳴るように携帯を設定しなおそう。

夜は迷惑メールに備えてサイレントモードにしておいたが、今夜からは設定変更だ。

これでいざという時も大丈夫だろう。

 

その準備が、まさかあんなに早く機能することになるとは思っていなかった。