細い月と満月

 昨日、月を見て切なくなりました。

 

 三日月になる前の細くて赤い月。

 

 妻はそんな月を見るとよく「ツメみたいだね」と言っていました。

 

 その度に私は自分の爪を見て、彼女がどうして「ツメ」と喩えたのかを考えたものです。爪の先の色が薄い部分のことなのか、爪の根元の白い部分なのか、それとも爪切りで切った後の欠片のことなのか・・・。

 

 でも、それを厳密に突き止めるほどの必要性は感じられず、変わった喩えをするなぁ・・・と思いながら、適当に「そうだね」と相槌を打っていました。

 

 妻が旅立ってから、その月を見る度に妻の言葉を思い出し、あれはなんだったんだろう・・・と考えていたのですが、ある時ふと気がつきました。そうか、鉤爪のようだと言っていたのかと。

 

 もしも「◯◯のツメ」と言ってくれれば、もっとイメージしやすかったのでしょうけど、「そうだね」と私が言うものですから、妻は伝わったと思っていたのでしょうね。

 

 妻がイメージしていたのは何の爪だったのか。猛獣なのか、魔女なのか、それとも他の何かだったのか。それを確かめる術はありません。

 

 そんな些細なことより、もっと大きなすれ違いがあったかもしれません。でも、不思議とそういうものを取り戻したいとは思わないんですよね。

 

 それよりも「ツメみたいな月」の喩えを正しく受け取れなかったこと、困惑しながらも、適当に流してちゃんと確認しなかったこと、それを妻に確認することは永久にできないこと・・・そんなことを考えると、視界がぼやけてきます。

 

 もしも「そうだね」に続けて「何の爪だと思う?」と付け加えられていれば・・・という悔恨と、そういうどうでもいい会話をできる相手がいないんだなぁ・・・という切なさを、改めて実感してしまうんですよね。

 

 今日、ほんの少し太さを増した三日月を見たら、昨日のように切なくはなりませんでした。妻と見たのは、きっと二日目の月だったのでしょうね。

 

 月と言えばもうひとつ。満月を見ると思い出すことがあります。

 

 妻の病状がまだ重くなかった頃、帰宅途中で見た満月が綺麗で、帰宅してすぐに妻を外へ連れ出したことがありました。

 

 面倒がって付き合ってくれないかなぁ・・・と思っていたのですが、案に相違して料理の手を止めて一緒に眺めてくれました。

 

 妻を誘ったのは、もしかしたら最後になるかも・・・と無意識に思っていたのかもしれません。

 

 でも妻はきっともっと明確に意識していたのでしょう。しばらく経ったある日、「一緒に満月を見たよね。私、日付もはっきり覚えているんだ」と言ったことがあるんです。

 

 ちょっとしたことを記念日にして短歌にするような繊細さが私にあれば、きちんと日付を確認して記録していたかもしれません。でも、なぜか記念日を覚えるのが昔から苦手で、家族の誕生日なんかもうろ覚えなんですよね。

 

 あの時に確認していれば・・・と思うこともあるのですが、でも、満月を見るたびに妻のその言葉を思い出すのですから、太陽暦の記念日なんて要らないのかも。

 

 『リトル・チャロ』という作品で、自分の誕生日を知らないと言う主人公の仔犬に老犬が言った「(お前が飼い主と出会った)雪の日曜の朝はみんなおまえの誕生日だ」というセリフを思い出しながら、そんなことを考えます。