コロナが無ければ・・・

グリーフ体験記②

 

 

それにしても、コロナが憎い。

コロナが無ければ、妻の最期はもう少し違っていたかもしれない。

 

少し前に新設された緩和ケア病棟は、ちょっとしたホテルのように見えるほど快適そうだった。

面会時間も制限が緩く、家族が泊まりやすい設備もあり、簡易なキッチンまで備えられていた。

入院に対する心理的なハードルは下がり、調子が悪くなれば、すぐに入院して毎日面会に通えばいい・・・はずだった。

 

妻の調子が徐々に悪化し始め、毎週末の楽しみだった買い物にも出かけられなくなった頃、コロナがまた流行し始めた。

 

緩和ケア病棟の面会も制限がかなり厳しくなった。

一般病棟は完全に面会禁止なので、それよりは恵まれているのだが、妻は入院を嫌がり、自宅に留まることを選択した。

 

やがて、妻は通院する体力も無くなり、血中酸素濃度が低下したので、在宅酸素療法を受けることになった。

 

在宅酸素療法の効果はあった。

息苦しさがかなり軽減し、夜中に目覚める回数も減った。

しばらくは入院せずとも良さそうだった。

 

そう思ったのも束の間、1週間ほどで再び息苦しさを訴えるようになった。

妻がずっと側にいてくれないと不安だと言うので、私は翌週の月曜日に出勤して残務整理をし、しばらく休みを取ることにした。

 

通院の付き添いでこれまでにかなり有給休暇を使ったので、すべて有給にすると年末までにすべて使い切ってしまう。

タイミングを見て、無給の介護休暇に切り替えよう。

 

しかし、数日後、妻は耐え難いほどの息苦しさを感じるようになった。

すぐに救急車を呼んでもよさそうなほどだ。

 

しかし折悪しく病院でクラスターが発生し、緩和ケア病棟が閉鎖されていたため、妻は入院を拒絶した。

一般病棟にはどうしても入院したくないと言うのだ。

 

数日後には緩和ケア病棟が再開される。

それまでは自宅で耐えることにした。

 

日曜日のうちに入院の準備をし、月曜日に入院させてもらおう。

ほとんど動けなくなった妻に代わり、家のあちこちを探し回って入院に必要なものを集める。

 

判断に迷うものは妻に見せ、「ちがう」と言われれば別のものを探し、「うん」と言われるまで繰り返す。

そうして、家で調達できるものは概ねカバンに詰め込んだ。

足りないものは病院の売店で買えば良いだろう。

 

月曜日、予定通り緩和ケア病棟が再開された。

病院に電話し、妻の様子を伝えると、即日入院することになった。

 

看護師からは救急車を勧められたが、ご近所に知られたくないからと妻が嫌がる。

酸素ボンベを車に積み込み、着替える体力も無い妻にパジャマの上から防寒具を着せ、なんとか車に乗せた。

 

病院に着いて担当看護師に電話をすると、迎えに出てきてくれて、車椅子に乗せるのを介助してくれた。

もうすぐだ。

 

診察室に辿り着き、入院のために必要だという検査をいくつか受けた。

しかし、それでもまだ入院はできない。

コロナの検査結果が出るまでは待機しなければならいという。

いったん妻を処置室で休ませ、その間に私は車から荷物を運ぶことにした。

 

コロナは陰性で、ようやく入院の許可が下りた。

緩和ケアの病室に入り、荷物を解いていると、看護師が来てレントゲンの撮影をすると言われた。

ベッドの上で撮影するらしい。

その間、私はデイルームで待機だ。

 

撮影が終わり、荷解きを再開した。

入院の準備中は面会時間に含まれないので、あえて急がない。

 

そのうちに、看護師から呼ばれ、主治医の話を聞くことになった。

片方の肺が胸水で満たされ、ほとんど機能していないという。

幸いもう片方の肺は機能しているが、予断を許さない状況だとのこと。

今後は月単位ではなく、週単位で推移していくだろうと言われ、さらに「年を越すのは難しいだろう」という、いわゆる余命宣告を受けてしまった。

 

病室へ戻ると、酸素マスクを着けた妻が、か細い声で話の内容を尋ねてきた。

肺の状態と血液検査の結果を伝え、余命については伏せるつもりだったが、勘の良い妻は「余命のことは言われた?」と核心を突いてきた。

 

こういう場合、ごまかしがきかないのは経験上明らかだ。

正直に答えるしかなかった。

 

持ってきた荷物をすべて納めると、今日一緒にいられるのはあと30分だ。

きっちり時間を計っているようには見えなかったが、あまり逸脱すれば制限がさらに厳しくなることもあり得ないことではない。

 

そうなれば、今後入院してくる患者に迷惑がかかるだろう。

そう思って、自ら30分を計測し、帰ることにした。

 

その間、返事をするだけでもしんどそうな妻にかける言葉が見つからず、ただ手を握って見守っていたのだが、今にして思えば、あの時もっと妻に声をかけておけば良かった。

 

翌日の未明に呼び出されて病室に着いた時は、苦痛を緩和するための薬剤を投与され、意識が無いようだった。

 

再び手を握り、見守る。

やがて「何かあれば呼んでください」と言い残して主治医と看護師が病室を去り、私は用意されていた簡易ベッドで横になった。

 

朝が来るまでには症状が落ち着き、また話すこともできるだろう。

その時はまだそう思っていた。