グリーフ体験記③
「その時」は不意に訪れた。
妻を入院させた日の夜、午前1時過ぎに病院から電話で呼び出された。
呼吸が苦しいようなので、薬剤を投与した。改善が見られずにさらに薬剤を投与すれば、呼吸が止まる可能性があるというのだ。
急いで身支度をして病院へ向かう。
前日に買っておいた入浴セットをついでに持っていくか一瞬迷ったが、今は少しでも早く病院へ向かうことが大事だ。
はやる気持ちを抑え、スピードを抑えて運転する。
万が一事故に遭ったり、警察に止められでもしたら、かえって到着が遅れてしまう。
もどかしい思いで車を走らせ、病院へ着くと、駐車場は閑散としていた。
夜間入り口の受付で名前を記入し、病棟へ向かう。
病室に入ると看護師と主治医がおり、妻の呼吸はゼーゼーと喘鳴音を出し続けていた。
眠くなる薬を追加したので、恐らく眠っているという。
看護師が「ご主人が来てくれましたよ」と優しく声をかけ、私にも来たことを伝えるように促した。
しかし、せっかく眠っているのに、起こしてしまえば苦しい思いをさせるかもしれないと変に気を回し、きちんと妻に声をかけることをせず、ただ手を握った。
しばらくそうしていたが、変化が見られないようだったので、「何かあれば呼んでください」と言い残し、主治医と看護師は引き上げた。
その後もしばらく手を握っていたが、特に変化は無い。
看護師が用意しておいてくれた簡易ベッドに横になった。
朝が来ればきっと症状が落ち着いて、また話せるだろうと思っていた。
時々看護師が見回りに来てくれるが特に変化がない。
このまま朝を迎えるだろう。
簡易ベッドで横になってそう思っているうちに、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
不意に、ずっと聞こえていた喘鳴音が止まり、目が覚めた。
少しするとまた聞こえ始めたので、再び眠ろうとした。
きっと呼吸が楽になり始めたのだろう。
そう思ったのだが、やはり心配なので側について手を握ることにした。
病室に着いてから3時間ほど経っていた。
妻の手を握ると、とても冷たい。
足も冷たい。
布団を掛けてやり、様子を見る。
喘鳴音の間隔が長くなってきた。
ナースコールを押すと、ほどなく看護師が来てくれた。
脈を見たりして少し様子を見ると、「先生を呼んできます」と言う。
私が「手足が冷たいんですけど・・・」と言っても「先生を呼んできます」と繰り返し、病室から出ていった。
妻は薄目を開けたまま、口も半開きで舌先が少し覗けている。
去年、看取った愛犬の顔を思い出した。
哺乳類は皆同じような顔をするのだろうか。
そんなことを考えながら主治医を待つ。
やがて看護師が戻り、さらにしばらくして主治医が訪れた。
特に何をするでもなく、ただ見守るだけだ。
延命を主な目的とする治療を行わないことは事前に確認していた。
もうその時が来てしまったのか。
喘鳴音は既に聞こえず、首筋がピクリと動いたきり、どこも動いていない。
妻の手を握りながら、チラリと主治医を見る。
こういう時は、こちらからお願いするべきものなのだろうか。
しかし、言葉が出ない。
しばらく妻を見つめ、主治医を見上げる。
それを何度か繰り返した後、主治医がついに口を開いた。
「その時」を確認するための一連の動作をする。
懐中電灯で瞳孔を照らす、例の確認行為だ。
そして、「その時」が告げられた。