年が明けたので、もう去年のことになりますが、久し振りに妻と喧嘩をしました。
喧嘩と言っても、ごく些細なことで、ちょっとした言い合いになっただけですが。
ようやく喧嘩ができるまでに心が回復したのかなと思い、嬉しくもありました。
喧嘩ができるということ
妻の再発がはっきりしてから、私たちの間には喧嘩が起きませんでした。
再発のショックが大きすぎて、それと比べると、日常の中で起こる失敗などは、取るに足らない些細なことになったのです。
怒るほどの心のエネルギーが無かったせいかもしれません。
ともかく、私たちはお互いに寛容になり、以前なら喧嘩に発展したようなことでも、「命に関わらないようなものならば、大したことではない」と許せるようになりました。
再発して良かったことを無理にでも探すとすれば、その1つになると言えるでしょう。
喧嘩のきっかけは本当に些細なことでした。
妻があるテレビドラマを「つまらない」と言いながら毎週録画して見続けていたので、そのことを私がからかっていたら、「しつこい!」と怒ってしまいました。
微笑ましい喧嘩と言えますかね。
でも、その「微笑ましい喧嘩」を取り戻すまで、ずいぶんと長い時間がかかりました。
ようやく今の状況にも慣れてきて、喧嘩ができるまでに妻の心が回復したようです。
喧嘩の後、そのことについて二人で話したりはしていませんが、心なしか妻も私も笑顔が少し増えたように思います。
でも、大きな喧嘩はまだ当分できないでしょう。
このままずっとできないかもしれません。
もしも大喧嘩をして、仲直りができないまま・・・と考えると、恐ろしくて喧嘩をする気になれないのです。
喧嘩をすることができる夫婦って、私からすると、うらやましい関係なんですよ。
大喧嘩が起こらず、小さな喧嘩が時々あるくらい。
熟年夫婦の生活はこんな感じなのだろうか・・・と想像してみたりします。
私たちにとって、それは自らの意思で積み上げたものではなく、否応なしに構築させられたものではありますが、これも案外悪くないかな・・・と思えるようになってきました。
私たち二人の生活は、恐らく多くの夫婦のそれよりは短いものになってしまうでしょうが、限られた時間の中で、長年連れ添った夫婦のような境地に達しているのかもしれません。
時間は短くなったけれども、そのぶん密度の濃いものになっている・・・そう考えながら日々の生活を送るようにしています。