歩調を合わせながら

妻は腸骨に強い痛みがあります。

夫婦で行動するときは、妻に歩調を合わせてゆっくり歩かなければなりません。

 

歩調を合わせながら 

妻は腸骨への転移があり、それによって引き起こされる強い痛みに悩まされています。

 

痛み止めの服用で、少し軽減されてはいるようですが、完全に痛みを取り去ることは難しいようです。

また、地方ですと、自動車で移動することが多いのですが、痛み止めは強い眠気を催すことがあるため、運転を控えなければなりません。

 

食料品の買い出しなど、以前は妻が1人で行くこともあったのですが、今は必ず2人で行くようになりました。

夫が1人で行けばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、買い物をしながら献立を考えたり、お買い得品を見つけたりするのは妻の楽しみでもあるので、私が1人で行くとその楽しみを奪うことになります。

 

ショッピングモールでの買い物では、妻が食料品を選んでいる間に、私は別の店を覗いているというようなことも以前はあったのですが、今は2人で過ごす時間を少しでも長くしたいということもあり、なるべく別行動を避けて付き添うようにしています。

 

妻の痛みがどれほどの強さなのか、その感覚を共有する術はありませんが、痛み止めの種類と量から、相当強い痛みなのであろうということは推測できます。

診断がつく前はその辛さを理解してやることができず、可哀想なことをしました。

 

今はその反省から、できるだけ妻に寄り添い、速度を合わせてゆっくり歩くように心がけながら、段差のあるところでは手を取ったりもしています。

 

端から見れば、仲の良い幸せそうな夫婦に見えているでしょうか。

それとも、いい歳をしてイチャイチャしているバカ夫婦に見えるでしょうか。

 

見た目では何の問題も無さそうなのに、高齢者のような速度で歩いていますから、駐車場などを歩くときは、周囲の車がイライラしているのではないかと気になってしまいます。

 

外見上は分からなくても、何らかの障害を抱えている人がいるということを、以前はあまり意識したことがありませんでしたが、今はどんな時も周囲への配慮を忘れないようにしようと心がけるようになりました。

 

店内を歩いていると、たまに元気の良いお子さんが激しい動きをしていたり、持っているものを振り回していたりすることがあるのですが、そんな時、妻は身を固くし、私はSPのように妻をガードする態勢をとって不測の事態に備えます。

 

もしかしたら、子ども嫌いの偏屈な夫婦に見えるかもしれませんね。

でも、親から見ると微笑ましい子どもの姿が、他方、それに恐怖を感じる者もいるのです。

 

さて、そうやって歩調を合わせて歩きながら、ある悲しい考えが私の頭をよぎることがあります。

(こうやって歩く速度を合わせるようになったけれども、人生を歩む速度には大きな違いが出てしまったなぁ・・・)と、ふと考えてしまうのです。

 

何かの拍子に変化が生じることがあるかもしれませんが、今のところ、2人の速度の差はとても大きいようです。

 

本来、その速度がピタリと一致することなどありません。

それは分かってはいたのですが、私たち2人の間にはそれほど大きな違いはないだろうと錯覚していました。

がんという病は、患者本人はもちろん、その家族にも厳しい現実を突き付け、幻想を打ち砕きます。

 

初発の時もショックを受け、ずいぶん悩んだものですが、手術が上手くいき、その後の治療もきちんと続けたことで、時間の経過とともに再び幻想を抱くようになっていました。

再発を知ってからは・・・少しずつ再構築された幻想は微塵に打ち砕かれ、修復の目処は立たず、ただ現実を受け入れながら今この時を一緒に過ごすしかなくなっています。

 

その辛い現実を受容するための手掛かりとなったことの1つが、現実世界とはかけ離れているはずのファンタジーの世界に見出した類似性です。

 

エルフ *1 が人間と恋に落ちる物語 *2 や、高橋留美子の『人魚の森 *3 』という作品など・・・

様々に描かれる、普通の人間と非常に長命かあるいは不老不死である者との関係、それは妻と私との関係に相似しているように思います。

 

そのことに気付いたことで、自分自身の苦悩を客観的に認知できるようになり、辛さが少しだけ和らいだような気がします。*4

 

こんなことをあれこれと考えながら、まだ一緒に歩くことが出来るこの瞬間を大事にしようと強く思うのです。*5

一緒に過ごせる時間が少しでも長くなって欲しいと願いながら。