冬物のクリーニング

また自分語りをしてしまいました。

よろしければ、ご覧ください。

冬物のクリーニング

桜が咲き、散った。

 

さらに数種の花が咲き、すっかり冬が遠ざかったというのに、ダウンジャケットなどの冬物がハンガーに掛けられたままだ。

何度かクリーニングに出すことを提案したのだが、その度に妻はあいまいな返事ではぐらかす。

そのうちにクリーニング店のセール期間が過ぎ、すぐに出さなければならない理由も無くなった。

初夏

初夏を彩る花が咲いたある日、さすがに次の冬までそのままというわけにもいかないだろうと、再びクリーニングを提案すると、妻は意を決したように、こんなことを口にした。

「私のは出さなくていいから、あなたの分だけ出して。だって、多分もう着られないから、クリーニング代がもったいないでしょう?」

 

そうか、そういうことだったのか。

妻は一般的に有効だとされる抗がん剤を使いきり、少し前から統計上の根拠が薄い抗がん剤を投与している。

前回の抗がん剤は、投与開始後初めての検査で腫瘍の増大が認められ、ほんの数ヶ月しか使えなかった。

楽観と悲観

私は今回の抗がん剤に期待しているのだが、妻は悲観的に見ており、また、抗がん剤による治療は今回で終わりにしようと決意もしている。

再び本格的な冬を迎えることはできないだろうと妻は言うのだ。

なぜか明るく、笑顔で。

「そんなこと言わずに、一緒に出そうよ。」

と私も笑顔で言ってみたが、妻の決心は揺るがない。

 

「それに、そろそろ冬物を少しずつ捨てていこうと思っているの。あなたの負担を少しでも減らしたいから。いっぺんに処分するのは大変でしょう?」

こんな悲しいことを妻に言わせるくらいなら、ずっと掛けたままでも良かったのに。

別れ道

でも、もう遅い。

2人の歩む道が既に分かれ始めていることが、はっきりと言語化されてしまった。

今はまだ2本の道が並行しているが、やがてその距離は離れていくだろう。

ずっとそのことから目を逸らすように努めてきたのだが、もはや直視せざるを得ない。

 

とても悲しいはずなのに涙が出ないのは、きっと知らず知らずのうちに覚悟ができていたからなのだろう。

今こうしてブログを書いていると、少し目が潤んできてはいるが、滴となってこぼれ落ちるまでは至らない。

いっそ、思い切り泣ければいいのに。

もう恋なんてしない

こんなにいっぱいの 君のぬけがら集めて

ムダなものに囲まれて 暮らすのも幸せと知った

槇原敬之「もう恋なんてしない」)

 

妻のがんが再発してから、聞くのが辛い歌の1つになっていたのだが、勝手に頭の中でリフレインしてしまう。

 

失恋の歌は、文字通りパートナーを失った心情を歌っている。

ほとんどの場合、その失い方を死別とも解釈できてしまうので、失恋の歌はどれも聴くのが辛くなってしまったのだが、殊に「もう恋なんてしない」は辛い。

 

妻の持ち物を処分しなければならない日がいつかやって来る。

そうなっても、妻宛ての郵便物はしばらく届くだろう。

その時、私は「もう恋なんてしない」とつぶやくのだろうか、それとも、「そんなことは言わない」と強がりを言うのだろうか。